蘇原能ゆかりの場所
① 一番目 お獅子様
宮塚
蘇原宮塚町2丁目にある蘇我倉山田石川麻呂の古墳。石川麻呂は若いころは蘇原の開発に力を注いだと思われる。
宮塚の頂の祠
石川麻呂は蘇我馬子の孫で大化の改新後に右大臣を務めた。
お獅子様
秋祭りでのお渡りの様子。この獅子頭は朝鮮半島から渡ってきたものであり、伽羅の香木で出来ている。安積家に逗留した志士の遺品と思われる。
安積の森(東から見る)
昔は鬱蒼と木が繁っていた。史跡的には中世 館跡といわれ、鏡久綱の居城とも考えられる。古代には、山田寺や加佐美神社の位置 から、蘇我石川麻呂の館もこの辺りにあったと思われる。お獅子様はしばらくこの地に逗留されたと伝えられている。
加佐美神社
御獅子様は、安積家の館から移られ、現在は各務原市蘇原古市場町にあるこの神社に鎮座しておられる。
② 二番目 文政騒動
安積の森(西から見る)
安積清右衛門はここで文政騒動の成り行きを見切った。座して成敗を観じ、立ちて生死を験すというが、苦しんで苦しんで、勝機をつかんだ。
(参考:soharajishi’s diary )野口明神社
文政騒動では、1829年4月9日夜、ここに村民が寄り合って相談した。
③ 三番目 島崎桜
島崎の法永寺に今も残る老桜木
島崎の地蔵菩薩
彦作の化身である。近くには藤の花が咲いている。
島崎の馬頭観音
美代の化身である。
木曾川と寝仏山
ここに木曾川の渡しがあった。この山は、信心深い人には仏様が寝てござるように見えるという。美代には、満身創痍で帰ってきた彦作が仏様のようにみえたであろう。
⓸ 四番目 東門奴
東門町の瓦工場の跡
東門奴はここに上納金を集めにきた。この頃の東門村は無人村であり、ここには須衛の瓦師 助右衛門の出小屋があったと思われる。
坂井2号橋
当時とは川筋も変わり道も変わったが、このあたりに「火の玉橋」といわれる土橋があった。向こうに見える右側の家が、当時の庄屋の永田家であり、その右の森に東門奴は土葬された。この辺りで火の玉を見た者があっても不思議ではない。
東門奴の墓石(手前の向かって左側)
慈悲深い永田家の子孫は、ここに墓石を安置して、家族同様に菩提を弔っておられた。墓石には「釈諦音位 文政三庚辰年」と書いてある。これは1820年であるが、この頃から東門村では瓦作りが盛んになっている。
安積家の檀徒の墓
ここに安積家ゆかりの志士、義士、義民が葬られていると思われる。銘がないのは役人の詮議や寝者(裏切者)の密告を恐れたためである。旅人(宝暦義民の末裔)もここに葬られたと思われる。
⑤ 五番目 野口太郎
飯沼喜入八
喜入八様は野口村初代庄屋であった。もとは下総佐倉の飯沼村の武士で野口太郎と言われていた。天正年間にこちらに来られたが、墓には文禄四(1595)年3月8日と書いてある。米野の戦い(1600年)で活躍した喜助は子孫である。
野口明神社の拝殿
ここで聖徳太子の霊と野口太郎の霊が丁々発止の大議論をするのである。
野口明神社の枯れたご神木
野口自治会のクーデター事件や践祚改元奉祝事件など、人心の堕落と世の荒廃を悲しんで、ついにご神木は枯れてしまわれた。
観世流能楽師の山中雅氏(右)と実行委員長の寺田てらだ 誠せい 知ち 氏(左)
人が「生きる」とはどういうことか! 能の原点について語りあう二人。
(撮影は中日新聞・大山弘記者)